フォーリン望楼、地下。出来る事ならば近づきたくなかったその地で、少年は情けないと感じながらも泣きたくなっていた。
酷く痛む左肩に手早く包帯を巻き、痛みを堪える為に奥歯を噛み締める。
そのまま暫く大人しくしていれば、先ほど使用したヒールポーションが利き始めたのだろう痛みが和らいでいく。

痛みが少し消えた事で少年はこれで幾度目か、少し大きめの溜息を吐いた。
俺ってお人好しだよな、なんて事を考えて壁に背を預ける。そんな僅かな動作で左肩に痛みが走り、再びその表情は酷く歪む。


「(…くっそぉ、痛てぇよぉぉ………!)」


身を隠すほどの空間があった事と、周囲にモンスターの気配がない事が不幸中の幸いだろう。
そこに来た事の始まりは、友人である剣士が少年に頭を下げた事だった。


"別の仕事入っちゃってさ、頼むっ!この通りっ!!"


他の知り合いはどうしたと問い掛けたけれど、生憎こんな物騒な所に来れる力量を持つ人物は少年しか居ないと言う。
無茶な頼みだからこそ少年を頼ったのだ、と言われては断る訳にもいかずに渋々引き受け、しかしその事を後悔したのは言うまでも無かった。
細かい歴史や地理は知らないけれど、此処は何かと拷問という名の地獄を味わった連中―――元は人間だろうに―――がウロついている所だ。

一般人が肝試しに、なんて生半可な遊び心を持って来た日には間違いなく命を落とすだろう。
今では冒険者の、それも中級以上で国に認められた冒険者以外は立ち入りが禁止されている場所だ。
だからこそ一般の冒険者でも仕事などで訪れない限り来る人はそう多くはなく―――そこまで考え、少年は泣きそうになりながら痛む肩を落とした。


「俺だって一般人だちくしょー………。」


少年は、お世辞にも強いとは言えないだろう。そんな事は自分が一番良く分かっているはずなのに、人に頼まれたら断れない自分の性格を恨む。
それなりの力量を持っていても、油断したらお陀仏。それなりの力量じゃなければ、油断しなくてもお陀仏。
ここはそういう場所―――否、強いて言うならモンスターの住まう場所は全てそうだと言えよう。

ただその中でも此処は希望の光もなにもない、ただ拷問を受けた人々の嘆きの声が響くだけの場所。
トラン森のような豊富な食材がある訳でもないし、スウェブタワーのような神秘の力が溢れている訳でもない。
あるのは地獄へと叩き落とされ、拷問を受けた者の叫びだけだ。此処での仕事は彼らをその地獄から解放させる、と言うのが主な目的とされている。

動いても平気なくらいには痛みが引いた左肩を掴み、再び溜息を吐く。
武道家としての能力も多少はあるが、彼らの攻撃力が半端じゃないのだ。
拷問された時の怨念でも込めているのか、と問いたい程にだ。

なんだってこんな仕事引き受けてしまったのだ、と結局は自分への呆れが出てきて、少年は髪の毛を掻いた。
しかし考えれば考えるほど、無駄な気がしてきた。否、無駄と言うより余計に自身のやる気を削るだけだという事に気づく。
此処の奥まで行って入り口に戻る。奥に進んで、少しでも多くの者を苦しみから解放させれば仕事は終わり。

そう考えればきっと自分はやりがいの有る仕事を引き受けたと思えなくはない。
脳裏に浮かべたこの地の地図を確認するついでに、多分まだまだ入り口の方だという事にも気付く。


「…えぇいっ、金の為だ、金金!!」


心にも無い事で自分の背中を押し、少年はダートを握り締め立ち上がった。















「(とは、言ったもの、のぉぉおっ!!)」


振り落とされる斧を間一髪で避け、少年は情けないと分かりながらも泣きたくなった。
しかし、そんなに勢いよく斧を振り落とされたらひとたまりもないんですよ、なんて事を考えられる程の余裕はあるらしい。
そう言った事を考えられなくなった時が本気で危ない時なのだろう。それは少年自身が良く分かっている。分かっている、けれど。


「(あぁもう、家に帰りてぇよぉ…っ!)」


プライドとかそんなものは既に遠くへ飛んで行ってしまったようだ。
しかし彼も冒険者として今日まで生きてきた。気持ちとは裏腹に、体はしみついた俊敏な動きを見せる。
視界の端で振り上げられた斧を認識し、それよりも早く反射的に振り上げていた右足を振り落とした。

少年の踵は相手の腕を強打し、鈍い音が響くとその衝撃に耐えきれなかったのだろう振り上げられた斧が派手な音を立てて床に滑り落ちる。
そこで攻撃の手を止めぬ冒険者はまずいないだろう。そのまま彼の右足は三回程螺旋を描き、見事な三連回し蹴りが決まる。
自然にこの技が安定して出来るようになったのは、何時だったろうか。

そんな事を頭の隅で考え、派手な音を立てて崩れ去った兵士を見下ろして少年は一息吐く。
こういう時ばかりは、嫌々ながらにでも武道家としての鍛錬もしてきて良かったと思える。
シーフとして戦うには、あまりにもリスクが高すぎるのだ。まだまだ未熟な少年にとって、身の安全を選ぶしか道はなかったのだ。

周りを見渡してみるが、この辺りは一掃出来たのだろうか。
今では呼吸するように自然と、そして殆ど無意識でも出来るようになってしまった足音探知で確認する。
その技術は今まで幾度も少年を助け、きっとこれからも助けてくれる重要な技術なのだろう。

周りに気配はない。その事を確認した少年が、不意に聞きとった何かに顔を上げた。


「―――………歌?」


気配を探って居た事から澄ましていた耳に届いたのは、透き通った優しい旋律だった。
どうしてこんな場所で、歌なんて。恐らく少年と同じ状況に立てば、誰でもそう思うだろう。
同時に、生気なんてある訳のないこの地で、生きている人間が見られるなら。

その一心で少年は足を動かしたが、その気持ちを理解できないという人物は恐らく数少ないだろう。
それ以上に、このような地でこんなにも透き通った声が聞けるなんて思いもしなかったのだ。
声からして恐らく女性だろうその旋律を辿っていき、ぐるりと大きめに回った壁の先。

不意に見えたのは、ふわりと柔らかく靡いた黒いマントだった。
黒のフードと同時に白銀の長髪が揺れ、その奥で静かな青紫の瞳が煌めいた。
とても凛とした人。それが第一印象だった。

手に握られていた笛と背後に居る二体のファミリアを見る限り、ビーストテイマーに間違いはないだろう。
しかし彼女の細い指は大地に寝転がるように倒れた民を優しく撫で、その瞳は悲しみに揺れていた。
響く旋律は彼に向けて紡がれているのだろう、青紫の瞳が静かに閉ざされる。

不覚にも、少年はその光景に魅入られていた。何故だろう、胸の奥が強く締め付けられるような。
悲しくて、切なくて、儚くて。けど、どこか優しくて力強い。言葉に出来ぬ感情が湧き出した直後。


「誰っ!?」


青紫の瞳がこちらへと向けられると同時に、鋭い声が響いた。
反射的にファミリア達もまた此方へと殺気を飛ばし、少年は思わず両手をあげた。


「え、あっ、すみません、怪しいもんじゃ…っ!?」


青紫の瞳が少年を映し出し、その瞳は一度は緩められるが、すぐに鋭く煌めいて。
慌てた様子で少女は立ち上がると同時に笛で円を描き、ファミリアが小さな身を奮い立たせた。


「特技ッ!」

「え」


間違いなくそれは自分に向けて出された指示であり―――否、違う。
ワンテンポ遅れて気付いたのは背後に湧き出してきた気配であり、少年は自分の気配察知の遅さにいっそ驚く。
振り上げられた両腕を右足で振り払い、無理な姿勢で右足を振り上げたからかその場でバランスを崩す。

しかしそれはむしろ好都合だったのか、二体のファミリア小さな身を震わせながら少年を超えて飛び掛かる。
鋭い睨みで相手の意識を自分に固定させ―――ビーストテイマーの特殊な指示があって初めて出来る、ターゲット固定だ。
ビーストテイマー達の能力によって元の数倍に強化されるペット達は、普通の人間よりも強固な存在となる。

その特性を生かし、モンスター達の攻撃対象をペットに絞る戦法だ。ペット達に大きな負担はかかるが、多くのビーストテイマー達はその戦法を心得ている。
その戦法で自分の身だけではない、共に戦う者達の命を救う場面も多くある。無論、その分彼女たちはペットに惜しみない感謝と愛を注ぐ。
そうしてビーストテイマー達の信頼は築き上げられ、立派な冒険者のうちの一つの職として認められているのだ。

元から人間よりも発達した俊敏さがファミリアの強みであり、小さな体からは信じられない程の攻撃力―――底上げされたその力は、自分のような一般人が見ると落ち込む程に強い。
あんな能力が俺にもあったら楽だろうに、なんて事を考えている暇があるほどだった。
驚くほどの速さで倒れた商人を見やり、ワンテンポ遅れて驚きから高鳴っていた胸に手を当てる。


「あ、ありがとう、たすか…うおっ!?」


慌てて礼を口にしながら振り返るが、今度は気付かぬうちに間近に来ていた少女に再び驚く。
咄嗟に彼女に道を開けるように身を退くが、彼女は少年に目もくれずに大地に倒れた商人に歩み寄る。
直ぐ隣でしゃがみこみ、二体のファミリアが彼女に寄り添うよう。

何事かと目を丸めると細い指が商人に触れ、彼を倒したのは彼女だというのに信じられない程に瞳を悲しげに揺らす。
そしてその場に静かに響き出したのは、先ほどの優しい旋律だった。歌詞もなにもない、ただの歌。
彼に向けて奏でられるそれは、不思議と心の奥底が安らぐ旋律だった。

彼を倒したのは彼女だというのに、何故だろう。ありったけの愛を注ぐような、そんな雰囲気。
言うまでもなくその空間に魅入られ、思わず口を噤む。
暫くすると旋律は止まり、彼女は静かに立ち上がって青紫の瞳で改めて少年を認識する。


「怪我、してませんか?」


何故だろう、黙って頷く事しか出来なかった。















「なんかすみません、いろいろと…。」

「いえ。無事で良かったです。」


いろいろ情けない、情けなさすぎる。そう少年は自分に酷く呆れるが、彼女はまるで気にしていないのだろう優しく微笑んで。
その笑みが少年のプライドをさらに追い詰めている事には気付いていないのだろう。


「でも、初めてです。こんなところで人と会えるなんて。」

「ははっ、俺も初めてですよ。しかもこんな時間に。」


深夜帯になれば、この地から繋がっている別の空間へと探索に出る冒険者は多くいるだろう。
昼間はその空間に行くための鍵であるポータルクリスタルを求めて来る人もいる。
だが、その殆どは身の安全の為に出入り口付近や、空間への入り口付近―――万一の時に助けを呼べる人が居る場所で行う。

だからこそ、今の少年等のように入口でもない、奥深くでもない中途半端な位置に来る者はあまり居ない。
時刻も丁度おやつ時だろう、この時間帯は多くの冒険者が街へ帰還する為の準備に取り掛かる頃だ。
二体のファミリアも少年に対する警戒心を薄めてくれたのだろう、指先にすり寄ってきて。


「ところで、さっきの歌って…?………彼に向けて歌ってたみたいですけど…。」

「え?…あぁ………。」


問いながら二人はもう一度先ほど倒した商人を見やる。既にその姿を砂へと変え始めており、その瞬間はいつみても不思議とやるせない気持ちになる。
少年はその光景を何度見ても慣れず…しかし冒険者はそれを何千回と繰り返す事で成り立つ職であり、自分達だ。
すると彼女も何処か悲しげに瞳を揺らし、小さな沈黙を挟む。


「………私の、お節介なレクイエムみたいな物です。」

「レクイエム?」


返ってきた返答を、思わず復唱する。それは確か、死者に安息を願って送る歌の事。
脳裏でレクイエムの意味を確認しながら見やると、頷いた彼女は苦笑を零して。


「なんて、ビショップさん達みたいな力は、ないんですけど。」


その表情は、酷く悲しげで。多分、力のない自分が情けなく感じているのだろう。
だからこそ、理解する。―――あぁ、この人はやさしい人なんだ、と。


「…そういう貴方は?こんなところでなにを?」

「へ?…あー、いや、ちょっとダチに仕事頼まれたっていうか、その………。」


押し付けられたというか、否、断れなかった自分が悪いのだから頼まれた、と言う方が筋だろう。
口籠りながら頬を掻き、自分の性格を恨みつつ言うと彼女は今度は酷く優しく微笑んで。
笑みなんて、今まで多くの人のを傍で見てきたのだけれど、何故だろう。



「奇遇ですね、私も友達に頼まれたんです。」



こんな地獄のような場所で、こんなにも優しく笑える人、初めて見た。
それは直ぐ地獄の闇に飲まれそうで、それでも強く輝く光のような気がした。








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