私は、彼にとても愛されていると思う。いや、愛されているのだと確信出来る。
まるで私がガラス玉かのように丁寧に優しく、とても大切にしてくれるからだ。
勿論、それは私自身も同じだ。彼と同じくらい、否それ以上に彼を愛している。

理由なんてないし、分からない。ただ漠然と隣に居るのは、彼でないと駄目なのだ。
喧嘩も沢山したし、嫌いだと思った面なんてお互いに山程あったはずだ。
それでも私達がお互いの隣に居るのは、そこに確かな愛情があるからであり―――だからこそ、結婚した。

彼は父の仕事を引き継ぐ事を決め、当初はその事で酷く悩んでいたようだ。
国会議員。街だけではない国の政治に関与する重要な職だ。とても難しい仕事だが、それでもやりがいがあるのだと彼は語っていた。
シーフとしての技術も心得ている彼だ、世間の裏で行われている密貿易などの面で特に役に立てる場もある。

自分の生活費どころか、私と結婚した今でさえ十分すぎるの賃金も与えられている。
しかしその分、責任も重く身勝手な行動はまず許されない上に、労働の条件も厳しい。
その中の一つ、国会議事堂のある古都ブルンネンシュティグから絶対に離れられない事で彼は酷く悩んでいた。

理由としては、私には故郷であるロマ村ビスルを復旧させる使命があったからだ。
それぞれの希望を実行するのであれば、当然遠距離となる。年に何回会えるか片手で数えられてしまうだろう。
耳打ちという非常に便利な通信手段はある。会いに行こうと思えばいつでも会える。

では、それでいいか…と問われれば、非常に決断し辛い事だった。そこで提案されたのは、彼の長期出張だ。
彼の父が出した案であり、それは彼を国会の代表の者としてビスル再建に力を貸す、という事だった。
再建は勿論、村が壊滅して居た事もあって途切れていた村の事や周辺の情報などの変化や情報を収集するのは国会の仕事だ。

私達にとってはこの上ない好都合な仕事だった。彼の発言力と助けが無ければ、もしかしたら結婚する事も出来なかったかもしれない。
無論、その仕事は今まで以上に辛く困難で、大変な仕事だ。それでも彼はとても嬉しそうだったし、私も嬉しかった。
ただ一つ、条件はあった。飽くまで彼がビスルに居られるのは国会の仕事として、出張としてそこに居るからだ。

長くても十年。それが私達に与えられた時間だった。若い頃に比べたら、その時間は酷く短く感じられた。
だからこそ、確かにその時の私には何処か焦りがあったのも事実だと思う。けれど、その焦りはそれだけが理由だけじゃなかった。
いや、正直そんな事は理由に入らないに等しかった。焦っていると言うよりも、少し寂しかったのかもしれない。


「…っと、よし!サンキューアスカ、助かったぜ。」


一日の復旧作業を記録した書類をまとめた彼の横顔に、手を伸ばした。
彼は毎日、その書類をまとめたらその日の仕事は終わりだという合図だ。いや、彼から言われた訳ではないけれど。
だからこそ彼の頬に触れると、彼は不思議そうにパープルの瞳を丸める。


「アスカ?どうし」


その問いかけを遮るように、背伸びをして彼の唇に触れてみる。慣れか、それとも自分の中で一線を越えたのか。
昔なら自分から口付ける事など、絶対に出来なかった。恥ずかしくない、と言う訳ではない。
けれど何故だろう、今となってはごく自然に出来てしまう。そんな自分に、私は酷く驚いている。

が、それ以上に驚いているのは彼の方だろう。暫くしてから身を離すと、案の定パープルの瞳が何事かと丸められていた。
その瞳を真っ直ぐ見上げ、ゆっくりと触れていた頬から指を離す。そして確かめるように視線を落とせば、やっぱり。
ペンを持っていた右手は限りなく硬く握りしめられており、何処か悲しさと寂しさを覚えた。


「ねぇ、クルセル」


名を呼びながら、その手に指先を伸ばす。酷く震えた彼の手を両手で握りしめ、もう一度顔を上げる。


「お願いだから、怯えないで。」


彼の瞳に告げると、パープルの瞳が酷く驚いたように見開かれていく。恐らく、殆ど無意識だったのだろう。
多分、何の事か分かっていない。いや、気付かないふりを続けていたはずだ。そしてその事を、私自身に指摘されるとも思っていなかったのだろう。
シェイルとは別の意味で、彼はとても頭が良い。物事を考える効率が非常に良いのだ。だからこそ、彼は昔からいざと言う時に決断力がある。

幼い頃に暗殺者として鍛えられた結果が、何十年も経った今も彼の根本に根付いているのだ。
だからこそ今のように酷く驚き言葉を失くしている彼というのは、実はとても数少ない貴重な表情だ。
握りしめた両手の中で、彼の手がその指から抜け出そうと動くが、振りきれないでいるのだろう。それは、彼が酷く戸惑って居るからだ。


「―――………。」


何かを言おうと彼は口を開くが、声は出てこない。きっと言葉は喉まできていて、出かかっている。
でも、やっぱり彼は口を閉ざして言葉を殺してしまう。心を殺してしまう。同時にギリ、と悲鳴を上げたのは彼の手の中に握られていたペンだ。
軋む音を立てるそれは先が尖っているものだ。彼が幼い頃からずっと握り続けてきたダートにも良く似ている。

パープルの瞳がペン先を認識すると、彼は酷く怯えた様子で今度こそ私の手を振り払おうとする。
否、どちらかと言えばソレから私を遠ざけようとしたのだろう、左手で右肩を掴まれる。
彼が左手にしていた多量の書類が床に落ち、それに対して私は彼の手を握り直してその場に踏みとどまった。


「っ、アス」

「クルセル。お願い、怯えないで。」


名を呼ぼうとした彼を、もう一度強く呼びかける。私よりずっと大きな手が、微かに震える。
その怯えを取り除くように、私は握りしめた彼の手を解す。かなりキツく握りしめていたのだろう、両手でもなかなか開かれない。
一本ずつ指を広げていくと、カランとその手からペンは床に転がった。それでも尚、力んでいるその手を今度は手のひらを合わせて両手で握りしめた。


「クルセル、私は壊れたりしないよ。」


彼は、私に触れようとしない。それはきっと、私が彼にとても大切にされているからだ。
そう、とても大切に、大切に、大切に―――否、まるで怯えているかのように。
ぐらり、と彼の身が揺れる。しかし彼は必死にその場に踏みとどまり、しかしパープルの瞳を隠すように俯き左手で自身の目元を覆う。


「…っ、ち、が…っ、違う、違うんだ、アスカ、俺は…っ!」

「うん。」


ぎゅ、と彼はすがりつくように私の手を掴み返す。その手は決して、私を傷つけたりする手ではない。
むしろ優しくて、優しくて、どこまでも優しくて。決して、私を突き放そうとしている手ではない。むしろその逆だ。


「俺は…っ、この手で、何百何千って人を、殺してきた…!」


理由も、なにも覚えていない。ただ今になって考えてみれば、確かに汚い権力を振りかざしていた貴族などもいただろう。
必要な財を得る為にも、それはとても重要な事だった。ただ、彼が一番悔いているのは。


「大人だけじゃねぇ、俺は…小さい、子供だって…っ…!」


その時、彼もまた幼い少年だった。それでも何も知らない、穢れを知らぬ幼い子供の瞳は脳裏に焼き付いていた。
当時、その瞳が訳も分からず酷く妬ましかった。今になってみれば、自分とは全く違う平和な暮らしを送っていた彼らが羨ましかったのだろう。
そして今になって、知った。あの小さな子供達には、溢れんばかりの未来があったはずなのだと。数え切れぬほどの未来を奪ってきた。


「そんな俺が"父親"になれんのか、って………お前に、触れるのが、怖いんだ。」


とても、とても小さな声で彼はそう呟いた。命の重さを知らぬ自分が、分からぬ自分が、誰かの親になれるというのか。
いや、なっても良いと言うのか。もし触れてしまったら、壊れてしまうのではないか。―――失いたくない。
そんな葛藤は、今の彼の手にとても良く似ている。離すつもりはない、むしろ離したくない。

けれど、強く握りしめる事も出来ない。だから僅かに握る事しか出来ない。
怯えている彼のその姿が、酷く幼く見えた。恐らくそれは、幼い頃の記憶が今も彼を苦しめているからだろう。


「ねぇ、クルセル。クルセルは、私に言ってくれたよね。」


その記憶が無かった事にする事は、出来ない。出来るというのであれば、皆そうしているはずだ。
けれど、時は止まらない。戻る事もない。時はただ進むだけだ。


「過去は消えない、でもだからって私が幸せになってはいけないなんて事は、おかしいって。」


罪は、消えない。償っても償っても、罪は消えないかもしれない。
それでも、償う事は許される。例え一生十字を抱えなくてはならないとしても。


「生きて償っていけば良い、って。幸せになってもいいんだって。」


その頬に手を伸ばせば、彼は怯えながらも驚いた様子でパープルの瞳を少しだけ覗かせた。




「―――大丈夫だよ、クルセル。」




笑いかけると、彼は全身から力が抜けて行ったのだろう。丸められていたパープルの瞳が、不意に歪んだ。
それを隠すように彼は私の肩に額を当て、ふわりと優しく抱き寄せてくれた。それに私もまた彼を抱きしめる事で答えれば、耳元で呟かれたのはとても小さく優しい"ありがとう"だった。









―言い訳―

結婚した後のアスカとクルセル、でした。二人の子供であるクルシェが出てくる作では、お気楽な父親、といった雰囲気ですが実はこういった経由があったんですよ、と言うお話でした。
全作中"愛してる"と言う言葉が似合うのはこの二人だと思っています。心から本当に相手を想っている、そんな二人だと思います。
そして二人はクルシェという大切な我が子に恵まれ、とても幸せなんだと思います。二人は母親、父親といった存在が欠けている環境で育ってきました。

だからこそ、二人はクルシェに惜しみない愛情を注ぐのだと思います。
だからこそ、二人は離れていても昔から変わらぬ気持ちで相手を、そしてクルシェを想えるのだと思います。
夫婦。そんな言葉が一番良く似合う二人なのだと思います。